あるプリンターメーカーの担当者から相談を受けたのは、去年のことです。
「ベテランから若手への技術の引き継ぎがうまくいっていなくて、新規開発も不具合修正も保守も、あちこちで手戻りや遅延が出ています。どうにかならないでしょうか」
最初に聞いたときは、よくある話だと思いました。技術の伝承がうまくいっていない会社は多いです。でも話を聞いていくうちに、この会社が抱えている問題の根が思ったより深いことがわかってきました。
ベテランはいる。でも定年が近い
この会社の人員構成を聞いて、まず驚きました。
ベテランの数は多い。技術力も高い。現場で困ったことが起きれば、ベテランに聞けばたいていすぐに解決できる。それは今でも機能しています。
ただ、そのベテランたちがもうすぐ大量に定年退職を迎えます。
中堅の社員は極端に少ない。いわゆる就職氷河期の影響で採用を絞っていた時期があって、その世代がすっぽり抜けているんです。若手はいますが、離職する人も多くて、採用もなかなかうまくいかない。毎年少しずつ数が減っていっている状況だということでした。
ベテランが退職したら、その知識はそのまま会社から出ていきます。引き継ぎができていなければ、残った若手だけで今までと同じ仕事をこなさないといけない。それが数年後に迫っている、という話でした。
技術の引き継ぎ方法は昔のままだった
「今はどんな方法で引き継ぎをしていますか」と聞いてみました。
答えはこうでした。若手はベテランと一緒に業務を進めながら経験を積む。ベテランが一から手取り足取り教えるのではなく、若手がベテランの仕事を横で見ながら技術を盗む。そういうスタイルだということです。
昔ながらの職人的な伝承方法です。
「昔はそれでうまくいっていたんですよね」と聞くと、「はい、昔はそれで問題なかったんです」という返答でした。
では、なぜ今はうまくいかないのか。そこを一緒に整理していきました。
昔のプリンターと今のプリンターは別物
昔のプリンターは、機械的な構造が中心でした。動く部品があって、それがどう動くかを理解すれば、ある程度の問題には対応できた。必要な知識の領域がシンプルだったんです。
今は違います。
精密な電子部品が入っている。インクの化学的な特性の知識が必要になっている。ソフトウェアの理解も求められる。機械、電子、化学、ソフトウェア、それぞれに深い知識が必要で、しかもそれらが複合的に絡み合っている。
さらに機種の数が増えました。お客様ごとに使っている機種が違う。しかも保守の仕事では、数十年前の古い機種から最新機種まで対応しないといけない。
昔のベテランは、時間をかけて自分の担当機種のプロフェッショナルになれました。担当の範囲が今より狭かったし、必要な知識の領域もシンプルだった。だから「背中を見て盗む」という方法でも、時間をかければ追いつけた。
今の若手は違います。一人が担当する範囲が何倍にも広がっている。必要な知識の領域も増えている。少子化で人数は少ない。その状況で「背中を見て盗め」は、現実的に無理があります。
部長も「なぜうまくいかないのか」わかっていなかった
現場の部長と何時間も話をしました。最初は部長自身も、なぜ若手への引き継ぎがうまくいかないのか、はっきり言語化できていない様子でした。
「若手がもっと積極的に吸収しようとしてくれれば、なんとかなると思うんですが」という話も出ました。
でも話を続けていくうちに、少しずつ整理されてきました。
「一人の若手の頭に、ベテラン5人分の知識を詰め込もうとしていたということですか」と聞くと、「…そうなりますね」と部長は言いました。
それは無理です。昔の方法が通用しなくなったのは、若手の姿勢や能力の問題じゃなくて、仕事の複雑さと人員の構成が変わったことが原因です。
部長はその場でメモを取り始めました。今まで何が問題なのかはっきりしなかったものが、ようやく整理できてきた、という顔をしていました。
ベテランの知識はデジタルで保管する
話し合いの中で、ひとつの方向性が見えてきました。
ベテランの知識を、若手一人の頭に全部入れようとするのをやめる。代わりに、ベテランの知識をデジタルで保管して、若手が必要なときに必要な情報を取り出せる仕組みをつくる。
ただ保存するだけでは意味がありません。検索できること、状況に応じて必要な情報にたどり着けること、それが重要です。「この機種のこの症状が出たときの対処法」をすぐに引き出せる状態にする。そういう設計が必要になります。
方向性としては、これで解決の道筋が見えてきました。
でも、その前にやることがある
ただ、デジタルで知識を整理する前に、もうひとつ必要なステップがあります。
各部署のベテランに、現状をしっかり理解してもらうことです。
「若手に知識が身についていないのは、若手がサボっているからだ」と思っているベテランは、正直なところ少なくありません。自分たちが若いころは、ちゃんと技術を身につけられた。だから今の若手がうまくいかないのは、本人の問題だと見ている人がいる。
でもそれは違います。昔と今では、仕事の複雑さも、担当する範囲も、必要な知識の量も、全部変わっています。昔の方法で今の問題を解こうとしても、うまくいかないのは当然です。
この認識のズレを埋めないまま、新しい仕組みだけ導入しても機能しません。ベテランが「昔のやり方で十分だ」と思ったまま、知識の整理作業に協力してくれなかったら、何も変わらないからです。
だから最初のステップは、現状の変化をベテランを含む関係者全員で共有することです。時代が変わった、ビジネスが変わった、だから引き継ぎの方法も変える必要がある。その必要性を腹落ちしてもらうことが、プロジェクトを前に進める上での土台になります。
業務改善が進まない会社の共通点
この会社の話をしながら、他にも似たような状況の会社をたくさん見てきたことを思い出しました。
業務改善や業務効率化のプロジェクトが立ち上がっても、なかなか前に進まない。その理由のひとつに、「昔はできたから今もできるはずだ」という思い込みがあることが多いです。
環境が変わっている。ビジネスが変わっている。必要なスキルや知識の構造が変わっている。それを認識しないまま、昔うまくいった方法をそのまま続けようとする。
若手が育たないのは若手のせい、成果が出ないのは現場の頑張りが足りないせい、という方向に話が向かってしまうと、本当の問題が見えなくなります。
問題は個人の能力や姿勢じゃなくて、仕事の構造が変わったのに方法が変わっていないことにある。そこに気づけるかどうかが、改善が進むかどうかの分かれ目だと思っています。
問題の原因を正確に見ることから始まる
このプリンターメーカーのケースで一番時間がかかったのは、システムの設計でも導入作業でもなくて、現状の問題を正確に言語化することでした。
部長と何時間も話をして、ようやく「一人の若手にベテラン5人分の知識を詰め込もうとしていた」という構造が見えてきた。その認識が共有されて初めて、「じゃあどうするか」という話ができるようになりました。
問題の原因がわからないまま解決策だけ探しても、的外れな対策を繰り返すことになります。プロジェクトを立ち上げて、うまくいかなくて、また新しいプロジェクトを立ち上げる。そのループから抜け出すためには、まず問題を正確に見ることが必要です。
これ、プリンターメーカーだけの話じゃないと思っています。技術の引き継ぎに限らず、業務改善全般に言えることです。
何が問題で、なぜそうなっているのか。それを丁寧に整理することが、遠回りに見えて一番の近道だと、いくつもの現場を見てきて感じています。

