親会社から切られた。
私たちのチームは、親会社にSESとして7名が常駐していた。会社としては「技術提供」という言葉を使っていたが、実態は人材派遣だった。その親会社の業績が悪化して、契約終了の通知が来たのは9月だった。私たちは外された。
社長も役員も事業部長も、言うことは同じだった。「仕事を取ってこい」と。それだけだった。どうやって取るのか、何を売るのか、誰に向けて提案するのか。そういう話は一切なかった。ただ「取ってこい」と繰り返された。
宮沢部長が動いた。おかげで、11月に単発の仕事が入った。
A3サイズの紙、一人2,000〜3,000行
内容は、トラックメーカーから提供されたA3サイズの仕様書をエクセルに入力すること。大型トラックと中型トラックのカスタマイズ可能な仕様を、すべてデータベース化する仕事だった。
紙には、積載量、車体の全長・全幅・全高、エンジンの排気量、最大出力、燃費、荷台の寸法、キャビンの種類、タイヤのサイズ、オプション装備の一覧が、細かい数字とともに印刷されていた。それを一項目ずつ、Excelのセルに打ち込んでいく。
一人あたり2,000行から3,000行を担当した。私はトラックの一つの型の標準仕様とオプション一覧を任された。カスタマイズの組み合わせが膨大で、「この荷台寸法にはこのキャビンが選べない」「この排気量ではこのタイヤサイズは不可」といった条件分岐も、備考欄に入力する必要があった。
納期は12月20日。11月初旬に仕事が始まって、実質6週間しかなかった。
箱根の旅館、午前3時の廊下
12月の第2週、私は彼女と箱根に旅行に出かけた。予定していた旅行で、キャンセルもできたけれど、納期前でもあったし「パソコンを持っていけば何とかなる」と判断した。
旅館に着いたのは夕方で、温泉に入って夕食を食べて、彼女は22時頃に寝た。旅行らしいことはしているが私の頭には常に仕事をしないと。私のデータを担当の先輩が待っている。という考えでいっぱいだった。明日3時には起きて仕事をしようと決めて早めに寝た。なんとか早朝に起きられた。キーボードの音や紙を扱う音で彼女が起きてしまいそうだった。
午前3時、私は廊下に出た。
談話スペースという名前の、畳敷きの小さな空間に、折りたたみ式のテーブルと座椅子があった。暖房は中央の廊下にしかなく、談話スペースまでは温かい空気が届いていなかった。外の気温は恐らく2度か3度。室内もそれほど変わらなかった。
A3の紙を広げて、ノートパソコンの画面と見比べる。「車体全長:11,950mm」「最大積載量:13,500kg」「燃費:6.8km/L」。数字を一つずつ確認しながら、Excelに打ち込んでいく。指先が冷たくなって、タイピングの感覚が鈍くなっていくのがわかった。1時間ほど作業して、部屋に戻った。その日は200行ほど進んだ。
翌朝、彼女に「昨日の夜どこにいたの?」と聞かれて、「ちょっと仕事してた」とだけ答えた。詳しくは説明しなかった。
早坂先輩が徹夜で目視チェック
納期の1週間前、12月13日。メンバー全員が入力したExcelファイルが、早坂先輩のもとに集まった。早坂先輩は入社5年目で、このプロジェクトのメイン担当だった。
先輩の役割は、全員の入力内容を目視で確認すること。紙の仕様書とExcelを並べて、一行ずつ見比べて、誤りがあれば修正する。7人分、合計で約18,000行。それを1週間でチェックしなければならなかった。
先輩は会社に泊まり込んだ。12月14日の夜、私が21時に退社する時も、先輩はまだデスクに向かっていた。翌朝、8時半に出社すると、先輩は同じ場所にいた。シャツは昨日と同じだった。恐らく徹夜だった。
12月16日、先輩は目が充血していた。廊下で会った時に「大丈夫ですか」と聞いたら、「何とかなる」とだけ答えた。声がかすれていた。
先輩が見つけたミスは、全体で約320箇所あったという。数字の桁違い、単位の入力ミス、オプションの組み合わせ条件の記載漏れ。そういうものを、人間の目で一つずつ拾っていった。
納期の前日、12月19日の夜、先輩は最終チェックを終えた。翌日、宮沢部長が顧客にデータを納品した。
「乗り越えれば次がある」という言葉
納品が終わった翌週、12月22日の定例ミーティングで、宮沢部長が話した。
「今回の仕事は地味で大変だったと思う。でも、最初の仕事で実績をつけてお客様から信頼されれば、今後も継続して仕事をもらえるから。今はつまらないし残業や休日まで大変かもしれないけど、ここを乗り越えればもっとみんなの強みで活躍できる仕事をもらえるから頑張ってほしい」
私はその言葉を聞きながら、心の中で問いかけていた。これは本気の計画なのか、それとも、疲弊しているメンバーを励ますための希望的観測なのか。
わからなかった。部長の表情からは、どちらとも取れた。本気でそう信じているのかもしれないし、そう信じたいだけなのかもしれない。どちらにせよ、目の前にあったのは「今ここを乗り越えれば」という前提だけだった。
請求額は聞いていないが、恐らく150万円から200万円だったと思う。7人が6週間動いて、残業も含めれば一人あたり月80時間ほど稼働した計算になる。時給換算すれば、決して高い仕事ではなかった。
「大人」は答えを知っているはずだった
小学校、中学校、高校、大学。大人はいつも、私よりも難しいことを知っていた。教科書の内容も、世の中の仕組みも、次にやるべきことも、大人は教えてくれた。だから私は、会社に入れば、社会人歴20年、30年の人が、もっと先のことを知っているものだと思っていた。
売上の上げ方。利益の出し方。給料を増やす方法。顧客を獲得する方法。それらには、知識があって、公式があって、答えがあるはずだと思っていた。大人たちは、それを知っているはずだと。
でも、どうもそうではないらしい。
社長は「仕事を取ってこい」と言うだけで、どう取るかは教えてくれない。役員も同じだ。部長は行動力で何とか持ってくるけれど、それが「戦略」として言語化されているわけじゃない。次に同じことをやろうとしても、また同じように「気合で取ってくる」しかない。
この会社には、「こうやれば仕事が取れる」という再現可能な方法がなかった。「こういうサービスを提供すれば、こういう顧客に刺さる」という明確な戦略もなかった。ただ、目の前の仕事を、目の前にいる人が、何とか持ってくる。そういう状態が続いていた。
「強み」がない会社で働くということ
この会社は、自分たちが何者なのかを言えなかった。
「技術提供」という言葉を使っていたけれど、それは看板でしかなかった。実際には、お客様が必要とする人を、必要な期間だけ提供する。それだけだった。今回の仕事で言えば、Excelにデータを入力できる人を、6週間提供する。それが私たちの仕事だった。
それ自体は悪いことじゃない。でも、それを「強み」として提示できていないなら、価格でしか勝負できない。他の会社も同じようなことをやっている中で、なぜ私たちを選んでもらえるのか。それを答えられないまま、「とにかく取ってこい」と言われても、どこに向かえばいいのかわからない。
部長が人脈で仕事を持ってきたのは、本当にありがたかった。でもそれは、属人的な力だった。部長が辞めたら、終わる。部長が疲弊したら、止まる。それが会社の仕組みとして機能していないなら、私たちは常に綱渡りをしている状態だった。
私は箱根の旅館の廊下で、トラックのスペック表を打ち込みながら、考えていた。この先、何年この会社にいても、同じことを繰り返すだけじゃないか、と。顧客が変わって、入力する内容が変わるだけで、構造は変わらないんじゃないか、と。
冬の廊下で見えた、会社の正体
「今はつまらないし大変かもしれないけど、ここを乗り越えればもっとみんなの強みで活躍できる仕事をもらえる」
部長の言葉を、私は何度も反芻していた。信じたかった。でも、信じるための材料が見つからなかった。
「乗り越えれば」の先に、何があるのか。それを誰も説明してくれなかった。戦略もなく、強みも定まっていない会社で、「次はもっといい仕事が来る」と信じるには、何を根拠にすればいいのか。
私はその頃から、漠然と考え始めていた。会社が進むべき方向を示せないなら、私が自分の進むべき方向を、自分で決めなければならないのかもしれない、と。大人が答えを持っていないなら、自分で答えを探さなければならないのかもしれない、と。
冬の廊下で、指先を温めながら打ち込んだあのスペック表。早坂先輩が徹夜で目を凝らして見比べた18,000行。それは私にとって、単なる入力作業ではなかった。あれは、会社というものの正体を、初めてはっきりと見た6週間だった。







