「ベテランが定年になる前に、技術を引き継がないといけない」
あるレジン加工企業の技術部長から相談を受けたことがあります。
レジンというのは、コンビニやスーパーの看板などに使われている素材です。街でよく見かけるあの光る看板、あれを作っている会社です。業界ではかなりシェアが高く、顧客からの要望に柔軟に対応できる技術力が強みでした。
ただ、この業種の難しいところは、量産品ではないということです。店舗の建物や立地に合わせた一品物を、熱で加工して作る。文書に明文化しにくい部分が多く、ベテランの経験と勘に頼る割合が高い。部品を組み立てて量産する製造業と違って、技術ノウハウを蓄積するのが構造的に難しい業種なんです。
そしてその技術部長が抱えていた問題は、あと数年でベテランが大量に定年退職するということでした。
「今のうちに技術ノウハウを引き継がないと、会社の技術が失われてしまう。でも、どうやって引き継げばいいのか分からない」
深刻な話でした。実際、こういう問題を抱えている製造業は少なくないと思います。
自動車メーカーで実績のある「シャドウイング」という方法
話を聞きながら、自動車メーカーでの取り組みが役に立ちそうだと思いました。「シャドウイング」と呼ばれる方法です。
やり方はシンプルです。若手が影のようにベテランの横について、ベテランの考え方を常にメモしてドキュメント化していく。
ポイントは「何をしたか」ではなく「なぜそう判断したか」を記録することです。
たとえば不具合が発生したとき、ベテランはなぜその現象からその場所を調査しようと思ったのか。なぜそこが原因だと特定できたのか。なぜその対策が適していると判断したのか。その判断の根拠になっている考え方をメモしていく。
さらに、実際に起きた事例から派生して質問を広げていきます。「今回はこの現象だったけど、もし別の現象だったら?」「もし別の色だったら?」「もし別の使用状況だったら?」。実際には発生していないことについても、ベテランの頭の中にある知識を引き出してドキュメント化していく。
「これを2年続ければ、技術伝承できるだけのノウハウが溜まるはずです」と伝えました。
「それで100%の技術ノウハウが引き継げるのですか?」
すると技術部長がこう聞いてきました。
「それで、100%の技術ノウハウが引き継げるのですか?」
少し考えてから、こう聞き返しました。「2年間で実際に発生する開発業務と問題点、それから派生して実際には発生しなかったことについての技術ノウハウが引き継げます。他にはどのような技術ノウハウが必要ですか?」
技術部長は少し黙って、こう言いました。
「……それだけあればいいのか……」
この一言が、なんというか、印象に残りました。
そもそも「100%」って何だろう
技術部長が「100%の技術ノウハウ」と言ったとき、その100%が何を指しているのか、実は本人も具体的に説明できなかったんだと思います。
ベテランが持っているすべての知識?過去に起きたすべての事例?将来起きるかもしれないすべての問題への対処法?
言葉にしてみると、どれも「100%」とは定義できないものです。
それに、このレジン加工業の商品は、工業用の機械部品とは違って、数十年にわたって保守し続けるものではありません。10年経って不具合が出たら、新しく作り直して納品すればいい。10年前の業務の進め方や当時の知識は、今の現場ではほとんど使わないものになっています。
だとすると、必要な技術ノウハウは「今これから2年の間に実際に発生する業務と問題点」をカバーできれば、実用上は十分なんです。それ以上を求めても、使われない知識が増えるだけです。
「100%の技術継承」という言葉は、聞こえはいいけれど、実態は「何が必要か定義されていない状態」です。ゴールが見えないから、どこから手をつければいいかも分からない。途方もない作業に見えてしまう。
技術部長はそういう状態にいたんだと思います。
まさか若手がメモを取るだけで解決するとは思っていなかった
「2年間、若手がベテランの横でメモを取り続ける」というのは、ものすごく泥臭い方法です。特別なシステムも、高価なツールも、複雑な仕組みも必要ない。
技術部長は、そんな方法で歴史ある企業の技術ノウハウがまとまるとは思っていなかったようです。もっと大がかりな、特別な何かが必要だと感じていた。魔法のような解決策がないと無理だと、どこかで思い込んでいたのかもしれません。
だから「100%引き継げるのか」という質問が出てきたんだと思います。100%という言葉の裏に「これほど難しい問題は、完璧な方法でないと解決できないはずだ」という感覚があったのかもしれない。
でも実際は、「何ができればOKとするか」を整理すれば、やることはシンプルになります。シンプルに考えて、シンプルにできることでなければ、続かないし現場に定着しない。
問題を難しくしているのは、自分自身かもしれない
この話、レジン加工の会社だけの話ではないと思っています。
仕事をしていると「この問題はとても複雑で、なかなか解決できない」と言い続けている状況に出会うことがあります。でも少し掘り下げてみると、「何ができればOKか」を定義していないだけだったり、「どこから手をつければいいか」を整理していないだけだったりすることが多い。
問題が難しいのではなく、難しく考えているだけ。
あるいは、難しい問題に取り組んでいるという状態を維持したい、という気持ちが働いていることもあるかもしれません。解決してしまったら、自分の存在意義が薄くなる。難しい問題と格闘している状態の方が、ある種の安心感がある。
そう考えると、会社のあちこちで「なかなか解決できない神秘的な問題」として扱われているものが、実はシンプルに整理すれば動き出せるものである可能性は、けっこう高いと思っています。
「何ができればOKか」を先に決める
技術部長との話で、僕が一番大事だと思ったのはここです。
「何ができればOKか」を先に決めること。
100%という言葉は、一見すると高い基準を設けているように見えます。でも実際は、ゴールが定義されていない状態です。ゴールが見えなければ、どんなに優秀な人でも動けない。どんなに真剣に取り組んでいても、終わりが見えないまま走り続けることになります。
「2年間でこの範囲のノウハウを引き継ぐ」と決める。その範囲に必要十分なものが入っているかを確認する。それだけで、あとは動き出せます。
これは技術継承の話だけじゃなくて、仕事全般に言えることだと思っています。
自分が今取り組んでいることの「OKの基準」は何か。それが明確になっているか。明確になっていなければ、まずそこを決めることが先です。基準があいまいなまま頑張り続けると、努力は積み上がらずに空中に消えていきます。
技術部長が「……それだけあればいいのか」と言った瞬間の顔は、なんとなく今でも覚えています。難しいと思い込んでいたものが、急にシンプルに見えた瞬間の顔でした。
あの顔を見るたびに、問題をシンプルに考えることの大切さを思い出します。

