吉田課長は、毎日終電で帰る人だった。
40歳。独身。趣味と呼べるものは、月に数回行くキャバクラくらいだと、本人が笑いながら話していた。「若い子たちと話すと元気もらえるんだよね」と、楽しそうに語る顔は、職場で見せる顔とは少し違った。仕事の話をする時とは別の、柔らかい表情だった。
課長のことを、嫌いだったわけじゃない。むしろ、どこか気になる存在だった。毎日終電まで働いて、それでも翌朝また出社してくる。その繰り返しの中で、課長は何を考えているんだろう、と。
「仕事が好きだから」という解釈と、その綻び
最初、私は単純に思っていた。課長は仕事が好きなんだろう、と。
もし嫌いなら、なるべく早く終わらせようとするはずだ。効率化しようとするはずだ。それをしていないということは、長く働くこと自体が苦じゃないんだろう。仕事が好きな人間の、自然な姿なんだろう、と。
でも、ある日課長が話してくれた言葉を聞いて、その解釈は少しずつ崩れていった。
課長は言った。「なるべく安く、多くの仕事を提供しないといけないんだよ。そうしないと、簡単に他の会社に取られてしまうから」と。
担当しているのは、10年以上つきあいのある顧客だという。
私はその言葉を聞いた瞬間、何か引っかかるものを感じた。でもその日は、うまく言葉にならなかった。ただ、胸のどこかに小さなとげのようなものが刺さって、そのまま残った。
10年間のつきあいが、価格の盾にならない
数日後、私はまたその言葉を思い出していた。
10年以上のつきあい。それはどれほどの積み重ねだろう。担当者が変わっても、会社の状況が変わっても、10年間そのお客様のそばにいた。打ち合わせの数だけ積み上がった信頼があって、トラブルを一緒に乗り越えた経験があって、担当者の顔と名前と癖を、互いに知り合っている関係がある。
そこまで入り込んでいても、「安くしなければ他に取られる」という状態が続いているのか。
私は、その事実がどうしても腑に落ちなかった。
お客様の業務を、課長たちほど深く理解している会社が、他にあるのだろうか。お客様の組織の内情を、担当者の悩みを、課題の歴史を、10年かけて積み上げた理解が、価格で上回られたら消えてしまうような何かでしかないのか。だとしたら、その10年は何のためにあったのか。
頭の中で、ある問いがぐるぐると回り始めた。
「入り込んでいること」は、武器にならないのか
私はあくまで外から見ていただけで、そのお客様の担当ではなかった。深く突っ込んで聞けることでもなかった。だから、想像するしかなかった。
でも想像しながら、私はどうしてもある可能性を拭いきれなかった。
10年間お客様の内側にいて、誰よりも深くその会社のことを理解しているなら、それは本来、圧倒的な優位性になるはずじゃないか。他の会社には出せない提案ができるはずじゃないか。「この価格でこの提案は、うちにしか出せない」と言える何かが、10年分の蓄積の中にあるはずじゃないか。
もしお客様が、他社と全く同じ提案を受けたとして、「でも10年一緒にやってきた御社の方が、私たちのことをわかってくれている」と感じてくれたなら。それだけで、価格の数%の差は十分に乗り越えられるんじゃないか。むしろ、そういう状態を10年で作ることができていないなら、それはいったい何のための10年だったのか。
もちろん、外から見ているだけの私にはわからないことがたくさんある。お客様との関係の実態も、価格競争の背景も、課長が抱えている制約も。だから、これは批判じゃない。ただの疑問だ。それでも、疑問は消えなかった。
安くすることで、何が起きているのか
「なるべく安く、多くの仕事を」という言葉を、私はもう一度ゆっくり考えた。
安くする、ということは、同じ売上を確保するために、より多くの仕事を引き受けるということだ。より多くの仕事をこなすためには、より多くの時間が必要になる。時間は増えないから、残業が増える。残業が増えるから、終電で帰ることになる。終電で帰る日が続くから、プライベートの選択肢は月数回のキャバクラしか残らなくなる。
そのサイクルの出発点に、「安くしないと取られてしまう」という前提があった。
私はその構造を頭の中で並べながら、なんとも言えない感覚を覚えた。悲しい、と言うには少し違う。不条理、というには大げさかもしれない。でも、何かがおかしいという感覚は、はっきりとそこにあった。
10年間誠実に仕事をしてきた人間が、その10年の蓄積ではなく、価格で勝負し続けなければならない。そのために、毎日終電まで働き続けている。
それは、誰かが意地悪をした結果じゃない。課長が怠けた結果でもない。真剣に、誠実に、お客様のために仕事をし続けてきた結果として、そこに辿り着いている。その事実が、私の中でどうしても整理できなかった。
「仕事が好きだから」ではなく「そうするしかないから」かもしれない
私は最初、課長が終電まで働くのは仕事が好きだからだと思っていた。でも時間が経つにつれて、その解釈は少しずつ変わっていった。
もしかしたら、課長もそうしたくてしているわけじゃないのかもしれない。安くしなければ取られる、多く提供しなければ維持できない、そのサイクルから抜け出す方法が、見えていないだけなのかもしれない。あるいは、わかっていても、一人の課長が変えられる規模の話じゃないのかもしれない。
会社全体の提案の仕方、価値の伝え方、価格の設定の根拠、そういうところまで変わらなければ、構造そのものは動かない。課長が一人で「もっと高く売ろう」と決意したところで、それで解決できる話じゃない。組織として、どんな価値をどう届けるかという設計が変わらなければ、個人の意志だけでは逃げられない。
私はその頃から、「仕事が好きかどうか」より「どういう構造の中で働いているか」という問いを、自分の中で意識するようになっていた。同じ努力量でも、構造によって結果がまったく違う。課長が真剣に仕事をしているのは間違いない。でも、その真剣さが向かっている先の設計が、10年経っても「安くしないと取られる」という状態から出られていない。
そしてふと思った。もしかしたら課長自身も、そうしたくてそうしているわけじゃないのかもしれない。その方法しか知らないから、その方法でやり続けているだけなのかもしれない。それは課長の弱さでも、能力の限界でもなく、誰もその先を教えてくれなかった、ということかもしれない。
「10年の信頼」が、価値として結晶化していない悲しさ
私がこの話を思い出すとき、最初に浮かぶのは「悲しい」という言葉だ。
10年という時間は、長い。担当者として、顧客の会議室に何百回と足を運んだ時間。電話口で問題を一緒に解決してきた夜。先方の担当者が変わるたびに、また一から信頼を築いてきた日々。それだけのものが積み重なっているのに、「安くしないと取られる」という言葉で表現されるような関係の中にいる。
お客様のことを誰よりもわかっているはずの人間が、価格で負けたら消えてしまうような立場でいる。
10年間かけて積み上げてきたものが、「価値」として認識されていないなら、その10年は何に変換されたのか。私にはわからなかった。でも、課長の終電帰りの背中を想像するたびに、その問いが静かに浮かんだ。
仕事の中身ではなく、仕事の構造を考えること。どれだけ誠実に積み重ねても、その積み重ねが価値として返ってこない仕組みの中にいるなら、誠実さは消耗の燃料にしかならない。私はあの頃、そのことを、吉田課長の話から学んでいた。誰かに教えてもらったわけでも、本で読んだわけでもなく、目の前にある現実から、静かに、確かに。







