半年に1回、評価面談がある。
上司と一対一で話して、これまでの仕事を振り返って、これからの期待を確認する。そういう場だ。会社として大切にしているはずの時間で、私もそれなりに準備をして臨んでいた。何を話そうか、どう伝えようか、と。
その面談で、吉田課長はこう言った。
「あなたは同期の中でも優秀だよ」と。
褒め言葉だった。悪意は、一ミリもなかったと思う。でも私は、その瞬間から笑えなくなった。
「同期の中でも」という言葉が指すもの
私の同期は、2人しかいない。しかもその2人は、どちらも吉田課長の配下にいる。
つまり「同期の中でも優秀」というのは、課長が直接見ている、自分の部下2人の中での話だ。他の部署も含めて5人、10人の同期の中から抜きん出た、という意味で使う言葉ではない。自分の目の前にいる、毎日関わっている、自分が育てている2人を比べているだけだ。
その言葉を聞いた瞬間、私は「ありがとうございます」と言えなかった。口が少し止まった。
なぜなら、あの言葉はひとつの事実を暴いていたからだ。吉田課長は、私の同期が自分の部下であることを、わかっていなかった。
「同期の中でも優秀」と言うためには、同期が誰で、どこに所属していて、どんな仕事をしているかを知っている必要がある。でも課長はその比較対象が、自分が毎日接している自分の部下だということに気づいていなかった。だからこそ、あんなにさらりと「同期の中でも」と言えた。
これは、私のことを見ていないという問題だけじゃない。もう一人の同期のことも、見えていないということだ。
その同期は、課長の配下で毎日働いている。課長の指示を受けて、課長のチームのために動いている。それなのに課長は、その同期が「私の同期」であるという事実すら、頭に入っていなかった。半期に一度、正式に向き合うはずの評価面談の場で。
しかも、その言葉にはもう一つの問題が隠れていた。
「同期の中でも優秀」ということは、裏を返せば「同期の誰かは優秀ではない」ということになる。では、課長の配下にいる私のもう一人の同期は、優秀ではないのか。だとしたら、その人をここまで指導してきたのは、他でもない吉田課長自身だ。
部下が育つかどうかは、環境と指導によるところが大きい。「優秀ではない部下がいる」という状況は、そのまま「その部下を十分に育てられていない」という状況でもある。そしてその責任の一端は、課長にある。「同期の中でも優秀だよ」という言葉は、課長自身がそのことに無自覚なまま、自分の指導の限界を口にしてしまっている言葉でもあった。
課長はきっと、そんなことは考えていなかった。ただ私を褒めようとして、咄嗟に出てきた言葉だったと思う。悪意はなかった。優しさから出た言葉だった。だからこそ余計に、私の中で何かが静かに、重く落ちていった。
「評価面談」という場が何を意味するのか
評価面談は、普通の雑談じゃない。会社として、半期に一度、正式に設けられている時間だ。
その場で上司が部下に伝える言葉は、根拠を持っているべきじゃないのか。「あなたはこういう仕事で、こういう貢献をした。だから評価している」という、具体的な事実に基づく言葉であるべきじゃないのか。
「同期の中でも優秀だよ」は、根拠ではない。比較対象が誰なのかもあやふやで、何をもって優秀と判断したのかも示されていない。しかもその比較対象が、課長自身の部下であることすら、把握できていないような言い方だった。
私はその場で黙って聞きながら、胸の中で静かに何かを確かめていた。この人は、私が半期にわたってやってきた仕事を、ちゃんと見ていたのだろうか。私が悩んで、試して、失敗して、やり直してきたことを、どこまで知っているのだろうか。
わからなかった。少なくとも、あの言葉からは、見えてこなかった。
課長を責めたいわけじゃない。課長は多忙だ。部下の仕事をすべて細かく把握する余裕が、そもそもないのかもしれない。でも、それなら「優秀だよ」という言葉は使わなければよかった。根拠のない評価は、評価ではない。ただの雰囲気だ。
「会社の不安」が、「私の不安」になった瞬間
本社にいると、ときどき大きな話が聞こえてくる。「会社全体の売上が下がっている」「あの部署がお客様から切られ始めている」「新しい収益の柱を作らないといけない」という類の話だ。
そういう話を聞くたびに、私はどこか他人事として処理していた。会社の経営の話は、私がどうこうできるものじゃない。上の人たちが考えることだ。私は目の前の仕事をちゃんとやっていればいい、と。
でも、あの評価面談の後、その感覚が変わった。
「会社が大丈夫かどうか」という問いと、「私の上司が私をちゃんと評価できているかどうか」という問いが、突然、同じ地平で結びついた。
会社全体の売上が下がっている、ということは、どこかで何かがうまくいっていない、ということだ。提案が刺さっていないか、顧客との関係が薄れているか、事業の設計がずれているか。そういう問題が、どこかにある。
そしてその問題を解決する役割を担うのは、課長のような立場の人間だ。でも、その課長が、自分の部下が誰と同期なのかも把握できていない状態で、「同期の中でも優秀」という言葉を評価面談で使っている。
会社の不安は、遠い話ではなかった。私の目の前に、すでにあった。
失望は、怒りとは違う
面談を終えて自席に戻った後、私はしばらく画面を見つめながら、自分の中の感情を確かめていた。
怒り、ではなかった。課長への怒りは、あまり湧いてこなかった。課長は悪意を持ってあの言葉を言ったわけじゃないし、私を傷つけようとしたわけでもない。むしろ、褒めようとしてくれていた。
失望、という言葉の方が近かった。
失望というのは、期待していたものが裏切られたときに生まれる。私は課長に何かを期待していたのか、と自問した。特別に高い期待があったわけではなかったかもしれない。でも、評価面談という場に対しては、それなりのものを期待していた。ちゃんと見てもらえている、という感覚を。
それが、あの言葉ひとつで崩れた。崩れた瞬間は、静かだった。ドラマチックでも、激しくもなかった。ただ、何かがすっと抜けていくような感覚だった。
がんばっても、正しく評価されない。その可能性を、頭の片隅でぼんやりと感じてはいた。でも、あの日初めて、それが「可能性」ではなく「現実」として、はっきりと見えた気がした。
「この上司の下にいてはだめだ」という確信
それまで私は、「なんとなくこの会社でいいのか」という漠とした不安を抱えていた。会社の売上の話、顧客が離れていく話、新しい商品が生まれない話。そういうものを遠くで聞きながら、でも自分はまだ若いし、今の環境でできることをやっていればいい、と思っていた。
でも、あの面談の後、漠然とした「会社への不安」は、具体的な「私の不安」に変わった。
会社が大丈夫かどうか、より先に、「この上司の下にいて、私は正しく評価されるのか」という問いが、急に鮮明になった。どれだけ仕事をしても、その仕事を正確に見てもらえないなら、評価は運と印象で決まる。努力の質も量も、届かないまま消えていく。
それはとても静かな恐怖だった。怒鳴られるわけでも、理不尽に怒られるわけでもない。ただ、見えていない。それだけのことが、これほど根本的な問題だとは、あの日まで実感していなかった。
課長は悪い人じゃない。今もそう思っている。ただ、「良い人かどうか」と「正しく評価できる人かどうか」は、別の話だった。良い人が、評価を正確に行える人とは限らない。その二つを混同していた自分に気づいたのも、あの日だった。
評価をする立場の人間が、根拠なく「優秀だよ」と言う。その言葉を受け取った瞬間の、あの小さな冷たさを、私は今でも覚えている。褒められているのに、嬉しくない。その感覚が教えてくれたのは、自分がどんな評価を必要としているか、ということだったかもしれない。
根拠のある評価。事実に基づく言葉。そういうものを、私は求めていた。それが、あの面談室から得られないとわかった日が、私にとって何かが静かに終わり、何かが静かに始まった日だった。







