
僕はある製造業の会社で、業務改善のコンサルティングをしていた時期がある。
そこで何度も同じ光景を見た。
部長から「気合いが足りない」「もっと本気でやれ」とだけ言われて、具体的な改善策は何も示されないまま席に戻っていく担当者。
前の週に言われた通りにやったのに、次の週にはまったく違う指示が飛んでくる現場。
原因を突き止めるための対策会議やなぜなぜ分析を、もう何十回も繰り返しているのに、同じトラブルがまた起きる部署。
成果をどれだけ出しても、「遅くまで残っているか」「言われたことをちゃんとやっているか」で評価が決まってしまう人事制度。
正直、僕も最初は「この上司、なんでこんなに具体性がないんだろう」「この会社、なんでここまで非合理なんだろう」と思っていた。
でも今は、少し違う見方をしている。
これは、上司個人の性格や能力の問題ではなく、株主から現場まで、それぞれの立場が抱えている役割と利害が積み重なった結果、自然とそうなってしまう構造の問題だった。
この記事では、その構造を、株主・社長・役員・部長・課長・リーダー・現場メンバーという7つの立場に分けて、一つずつ解剖していく。
- 上司や組織への違和感の多くは、上司個人の性格や能力の欠陥ではなく、株主から現場メンバーまでの7つの立場それぞれに固有の役割と利害があり、その連鎖の中で生まれる構造的な現象である
- 根性論指導、指示の一貫性のなさ、なぜなぜ分析の形骸化、プロセス評価の重視は、それぞれ別々の問題に見えて、実際には同じ構造から発生している
- この構造を理解すると、「上司が悪い」「自分が悪い」という個人攻撃の思考から離れ、自分が置かれている状況を立場の力学として整理できるようになる
- 「上司ガチャ」「無能な上司」論で終わらせてよいのか
- なぜ「上司個人の問題」という説明では解決しないのか
- この記事の見取り図—組織を動かす7つの立場
- 株主—利益を最優先し、社長・従業員の利益を二の次に置く立場
- 社長—資源分配という戦略を担い、利益拡大か現状維持かの分かれ道に立つ立場
- 役員—役員報酬と社長への提案継続という利害に縛られる立場
- 部長—20年かけて到達した椅子を守るため、失敗できない立場
- 課長—部長と現場メンバーに挟まれ、業務量と精神的負荷が重なる立場
- リーダー—マニュアル化と信頼構築を担い、成果と支援を同時に求められる立場
- 現場メンバー—実務を覚えながら、理想と現実の不条理に向き合う立場
- 立場と立場のあいだで何が起きているか—違和感が増幅される連鎖の構造
- まとめ—構造が見えると、怒りは整理に変わる
「上司ガチャ」「無能な上司」論で終わらせてよいのか

上司個人の資質を疑うこと自体は間違いではないが、それだけでは同じ理不尽さが上司を変えても繰り返される理由を説明できない。
僕がこの構造に気づく前、同じように「上司ガチャ」という言葉をよく使っていた。
SNSを見ても、「クラッシャー上司」「無能な上司」「うるさい上司」という言葉があふれている。理不尽な指示や、意味の分からない評価基準に当たった時、それを上司個人の資質のせいにするのは、自然な反応だと思う。実際、僕が見てきた現場でも、明らかに指導力が不足している上司はいた。
ただ、この見方だけでは説明できないことがある。
なぜ、そういう人物が上司の座に居続けられるのか。なぜ、上司が変わっても、似たような理不尽さが形を変えて繰り返されるのか。
「口頭で指示された通りにやったのに、次はまた違う指示になる」という現象も、上司が気まぐれだからというより、上司自身が、自分よりさらに上の立場から受けている力に振り回されている可能性がある。
個人の資質の話だけでは、組織という仕組みの中で何度も繰り返される現象を、説明しきれない。
僕自身、コンサルティングの現場を離れたあとも、「うるさい上司」「合わない上司」といった検索語で、同じような悩みを抱えている人たちの投稿をよく目にしてきた。誰もが、目の前の理不尽さに名前をつけようとしている。ただ、その名前が「あの人の性格」で止まってしまうと、次に同じ現象に出会ったとき、また一から傷つき直すことになる。
なぜ「上司個人の問題」という説明では解決しないのか

上司個人の問題として片づけられないのは、株主から現場までのあいだにある利害の不一致が、立場を超えて連鎖しているからだ。
経営学には、エージェンシー理論という考え方がある。
株式会社という仕組みの中では、お金を出す株主(依頼人)と、実際に会社を動かす経営者や従業員(代理人)のあいだで、そもそも利害が完全には一致しない。株主は投資した資金に対するリターン、つまり資本効率を最優先に考えるのに対し、経営者は自分の地位を守ることや、今のやり方を維持することを優先してしまう場合がある。この利害のずれは、エージェンシー・スラックと呼ばれている。
僕がこの理論を知って腑に落ちたのは、この利害のずれが、株主と経営者のあいだだけで起きているわけではないということだった。経営者と役員、役員と部長、部長と課長、課長と現場のあいだにも、形を変えて同じようなずれが連鎖している。
上司の言動が理不尽に見えるのは、多くの場合、その上司自身がこの連鎖のどこかの立場で受けている圧力を、そのまま下に伝えているからだ。
実際、経営者が仕組み化や自動化でコストを削減しようとする一方で、従業員は「自分の仕事が奪われる」という不安から、その変化に抵抗する。同じ施策が、立場によってまったく逆の意味を持ってしまう。
これは、誰かの努力不足や性格の問題ではない。
この記事の見取り図—組織を動かす7つの立場

ここから、株主・社長・役員・部長・課長・リーダー・現場メンバーという7つの立場を、一つずつ見ていきたい。
上流にいる株主から、下流にいる現場メンバーまで、資本を提供する側から実務を担う側へと、順番に並べてある。
それぞれの立場には、その立場だからこそ担わなければならない「役割」があり、その役割から自然に生まれてくる「心理」がある。
僕はこの7つを一つずつ解剖していくことで、日々の理不尽さがどこから来ているのかを、できるだけ具体的に言葉にしていきたいと思っている。
大事なのは、どの立場が正しくて、どの立場が間違っているかを決めることではない。それぞれの立場が、それぞれの持ち場で何を背負っているのかを、順番に見ていくことだ。
株主—利益を最優先し、社長・従業員の利益を二の次に置く立場
株主の役割は投資によるリターンの最大化であり、心理は自分の利益を最優先し社長や従業員の利益を二の次に置くことにある。
株主は、株式会社に資金を投資し、その見返りとして利益を得ることを目的にしている人たちだ。その代わりに、投資した資金を失うかもしれないという金銭的なリスクを、自分で引き受けている。
エージェンシー理論で言えば、株主は依頼人(プリンシパル)の立場にあり、投資に対するリターン、つまり資本効率をもっとも重視する。
僕がコンサルティングの現場で感じてきたのは、株主にとっての合理性は、あくまで「投資に対するリターンの最大化」であって、社長や従業員がどれだけ働きやすいかは、その目的にとって二次的な関心事にとどまってしまうということだった。
これは冷たい話に聞こえるかもしれないが、株主という立場に固有の合理性として捉えると、次の社長の章で見えてくる「なぜ資源配分がこれほど厳しいのか」という疑問の出発点になる。
株主が実際にどのような権限を行使して、この優先順位を会社に反映させているかは、株主が実際に行使する5つの権限——会社の何を、どう決めているのかで、経営方針の決定から会社の売却まで、より具体的に見ている。
会社という仕組みは、そもそもこの優先順位の上に成り立っている。
社長—資源分配という戦略を担い、利益拡大か現状維持かの分かれ道に立つ立場
社長の役割は資源配分という戦略を立てることであり、心理は企業のフェーズによって利益拡大を志向するか現状維持を志向するかに分かれる。
社長の役割は、戦略を立てることだ。
戦略とは、資源の分配のことを指す。どの部門に、どれだけの人・モノ・お金を割り振るか。その配分を決めることで、株式会社の目的である利益追求を行い、株主に利益を還元する。社長自身が多くの自社株を保有し、社長自身が株主を兼ねている場合も多い。
僕が見てきた限り、企業のフェーズによって、社長は大きく2つのタイプに分かれる。
利益をさらに拡大させていきたいと考える社長と、これ以上問題を起こさないことで、自分の地位や利益を確保しようと考える社長だ。
後者のタイプの社長のもとでは、「新しい挑戦をすること」よりも、「失敗しないこと」が、組織全体の暗黙のルールになりやすい。これが、この後見ていく部長や課長の「失敗を避けたい」という心理に、そのままつながっていく。
社長が本来担うべき役割を、資源配分という戦略のさらに一段具体的なレベルで見ていくと、マーケティング・管理・KSF管理・問題設定という4つの職務に分解できる。社長の本当の仕事は「働くこと」ではない——システムと管理という役割の再定義で、社長が「労働者」ではなく「システムの保持者」であるべき理由を、より具体的に見ている。
日本型雇用が、社員の能力にそれほど差をつけない能力平等主義に基づき、中途採用ではなく内部昇進のところてん方式を採用してきた背景も、社長自身がこの仕組みの中で育ってきた人物であることを物語っている。
役員—役員報酬と社長への提案継続という利害に縛られる立場
役員の役割は経営執行を各領域で担うことであり、心理は役員報酬と地位を守るため社長への提案を通し続けなければならないことにある。
役員は、COO(最高執行責任者)、CIO(最高情報責任者)、CFO(最高財務責任者)など、経営の執行を各領域で担う人たちだ。
COO・CIO・CFOという3つの役職がそれぞれ何を職責とし、なぜ現場からは指示の意図が読み解きにくいのかは、役員は何をしている人なのか——COO・CIO・CFOの役割をわかりやすく解説で、より具体的に見ている。
僕が印象的だったのは、役員報酬の大きさが、この立場の心理を強く規定しているという話だった。役員を続けられるか、途中で降ろされるかによって、収入が大きく変わってしまう。
だからこそ役員は、自分の地位を守るために、優秀な部下である部長と一緒に、成果が見えやすい提案を、社長に対して出し続けようとする。
この「提案を通し続けなければならない」という圧力は、役員自身のプレッシャーであると同時に、次の部長の章で見ていく心理に、直接つながっていく。
役員もまた、上からの評価にさらされ続ける立場にある。
部長—20年かけて到達した椅子を守るため、失敗できない立場

部長の役割は資源の活用という戦術を立てることであり、心理は20年かけて得た地位を守るため失敗と部下からの追い抜きを避けることにある。
部長の役割は、戦術を立てることだ。
戦術とは、資源の活用のことを指す。社長が決めた資源配分の中で、実際に利益が確保できるよう、業務を仕組み化していく。
僕がこれまで見てきた部長の多くは、20年以上かけて、ようやく部長という椅子にたどり着いた人たちだった。部下には上司らしく振る舞い、頼りにされたいという気持ちを持っている。そして、定年までは部長でい続けたいと思っている。
そのために、もっとも重要になるのが「失敗しないこと」と「部下に抜かされないこと」だ。
この心理のもとでは、具体的な解決策を明示して、その責任を自分で負うよりも、「気合いで乗り切れ」という精神論的な指摘のほうが、部長にとってはリスクの低い選択になってしまう。これは、部長個人の指導力不足というより、20年かけて積み上げてきた地位を守るという立場から導かれる、ある意味で合理的な行動だった。
僕がこの構造を理解するきっかけになったのが、1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーボール日本代表、通称「東洋の魔女」を率いた、大松博文監督の指導だった。苛烈なスパルタ特訓の末に結果を出したこの成功体験は、高度経済成長期の日本企業にとって、精神力こそが結果を生むという、強力な記憶として残った。時代の条件が変わった今も、この行動様式だけが、組織の中に残り続けている。
1000万円の部長が問題を解決できなかった話で書いたように、高い給与をもらっている部長であっても、問題そのものを解決できないケースは珍しくない。それは能力の欠如というより、この立場が背負っている構造そのものが理由になっている。部長は自部署の利益確保のために動かざるを得ない事情も、同じ構造から生まれている。
部長がなぜこれほど強い権限を持ち、現場がそれに逆らいにくいのかという権限の中身については、部長の権限の正体──「給与権」と「人事権」が現場を動かす仕組みで、給与権・人事権という具体的な根拠からより詳しく見ている。
こうした部長の言動を、一人のモデルケースの具体的な30年の年表として辿り直したのが、「無能な上司」ではなかった——現場を知らない55歳部長、1993年入社からの30年史だ。就職氷河期・IT丸投げ文化・多重下請け構造・役職定年制度という、時代背景の事実に沿って、その生存戦略を解剖している。
課長—部長と現場メンバーに挟まれ、業務量と精神的負荷が重なる立場

課長の役割は戦術と業務フローを維持・管理することであり、心理は部長と現場メンバーに挟まれる板挟みの負荷にある。
課長の役割は、戦術と業務フローを維持・管理することだ。
この役割が、なぜ板挟みという形で現れるのかという構造については、課長の役割はなぜ「戦術と業務フローの維持管理」なのか——板挟みの構造を解剖するで、プレイングマネージャー化・翻訳者としての機能・罰ゲーム化という3つの構造要因から、より具体的に見ている。
僕が話を聞いてきた課長の多くは、プレイングマネージャーとして自分自身も実務を抱えながら、部長と現場メンバーの間に挟まれて、業務量と精神的な負荷の両方に押しつぶされそうになっていた。
管理職という立場は、経営の論理、つまり投資対効果の話を、現場が納得できる言葉、つまり負担がどれだけ減るかという話に翻訳しなければならない。同時に、現場で起きている複雑な例外処理を、上に対して理解できる形に翻訳して伝える必要もある。いわば翻訳者としての管理職という役割を、常に背負っている。
そこに加えて、ハラスメントへの懸念から部下を強く指導しづらいという「叱れない」構造的な制約が重なる。経営からは生産性の向上を求められ、現場からは心理的な安全性を求められる。この板挟みの状態は、しばしば罰ゲーム化した管理職と呼ばれる。
なぜなぜ分析や対策会議が、担当者の「体感」という主観的な情報に頼らざるを得ず、管理職が現場の泥臭いボトルネックを無視して、トップダウンで対策を押しつけてしまう構造も、課長がこの板挟みの中で「とりあえず会議を開く」という対応に流れやすい理由の一つだと、僕は考えている。
課長は課長が評価したいように評価するで描いたような、評価基準のズレも、この板挟みの構造から生まれている。なぜ会社は中間管理職の給料を上げないのかという疑問も、同じ構造の延長線上にある。
課長自身も、疲弊しながら、この構造の中で立ち回っている。
リーダー—マニュアル化と信頼構築を担い、成果と支援を同時に求められる立場
リーダーの役割はマニュアル化と信頼構築であり、心理は成果を出し続けることと部下を支えることを同時に求められる二重の重圧にある。
リーダーの役割は、業務をマニュアルに落とし込み、現場メンバーが実行できるようにすることだ。それに加えて、社員同士のあいだに生じやすい「不信感」を、対話によって和らげ、信頼関係を築いていくことも求められる。
僕が見てきたリーダーは、現場メンバーの手本となるように、自分自身も成果を出し続けなければならないというプレッシャーと、部下を実務的にも精神的にも支えなければならないという責任の、両方を同時に背負っていた。
世代や立場の異なるメンバーのあいだで生まれる「コミュニケーションの断絶」も、価値観を一方的に押しつけるのではなく、相手の背景を尊重した上で、共通の言葉に置き換えて伝える技術によって、初めて橋渡しができるようになる。
リーダーがこの二重の重圧の中で、具体的にどのような役割を担い、なぜそう振る舞うのかは、リーダーの役割はなぜ「マニュアル化と信頼構築」なのか——二重の重圧を背負う構造を解剖するで、現場ハブとしての機能から、より具体的に見ている。
リーダーは、成果と支援という、2つの重たい役割を、同時に背負っている立場だった。
現場メンバー—実務を覚えながら、理想と現実の不条理に向き合う立場
現場メンバーの役割は実務を行うことであり、心理は上流の事情を知らされないまま指示だけを受け取る不条理への葛藤にある。
現場メンバーの役割は、実務を行うことだ。
実務を覚えること自体が、簡単なことではない。そして、理想と現実のあいだにある不条理に、日々葛藤を抱えている。
ここまで見てきた株主から課長・リーダーまでの6つの立場、それぞれの利害が積み重なった結果を、現場メンバーは日々の指示や評価という形で受け取ることになる。同じような指示が、その場しのぎに見えてしまうのは、その指示の背後に、複数の立場の意図が折り重なっているからだった。
僕が話を聞いてきた現場メンバーの中には、キャリアを見据えて、自分の人生設計のモデルを探しながら、今の会社を静かに見極めようとしている人が、決して少なくなかった。それは、受け身で流されているのではなく、自分の意思で状況を見定めようとしている姿だった。
僕がこの立場を見ていて感じたのは、現場メンバーは、7つの立場のうちもっとも情報が少ないまま、もっとも多くの指示を受け取る立場だということだった。上流で何が話し合われ、どんな事情で方針が変わったのか、その経緯を知らされないまま、結果だけが降りてくる。だからこそ、指示の背景にある構造を知ることが、現場メンバーにとって特に大きな意味を持つ。
立場と立場のあいだで何が起きているか—違和感が増幅される連鎖の構造

冒頭で挙げた4つの違和感は、すべて7つの立場の利害が連鎖した結果として説明できる。
ここまで7つの立場を見てきた。
最初に挙げた4つの違和感を、それぞれの立場の連鎖として、もう一度整理してみたい。
まず、根性論による指摘と、具体的な指導のなさについて。部長や課長が「失敗できない」立場に置かれていること、そして東洋の魔女に象徴される高度経済成長期の成功体験に由来する行動様式が、具体策を提示するよりも精神論を選ばせる構造として連鎖している。「もっと頑張ればできる」はマネジメントの敗北。技術伝承を阻む「職人OS」のバグで書いたように、精神論に逃げる上司の背後には、いつもこの構造がある。
次に、指示がその都度変わることについて。役員や部長が、社長や株主からの評価軸の変化、つまり利益拡大を重視するのか、現状維持を重視するのかという、企業のフェーズによって揺れる方針を、そのまま受け止めて下に伝達している。だから、指示が変わって見えてしまう。
なぜなぜ分析や対策会議が根本解決に至らないことについて。課長や部長が「人を責めれば早く終わる」という構造の中で、体感データに基づいた会議を回さざるを得ないこと、そして問題の真因を「仕組みの不備」ではなく「個人の注意不足」に帰結させてしまう文化が、立場を超えて再生産され続けている。上司が個人の「効率化」を嫌う理由:現状維持バイアスと評価システムで描いた現状維持バイアスも、この構造の一部だ。
最後に、成果よりも仕事をしているかどうかで評価されることについて。日本型雇用の能力平等主義と、内部昇進のところてん方式に由来する、勤務態度やプロセスを評価する仕組みが、社長や役員の評価基準として、今も残り続けている。
僕がもう一つ興味深いと感じたのは、現状維持に最適化した社員が組織に残り続けることは、一見「安定」に見えて、実は「高度な旧システムの保守」という側面を持っているという指摘だった。この構造は、簡単には変わらない。それぞれの立場が、それぞれの合理性に従って動き続けている限り、同じ現象は形を変えて繰り返される。
僕が最初に挙げた4つの違和感は、それぞれ別の場所で起きているように見えて、実は同じ7つの立場の連鎖の、違う断面を映しているだけだった。根性論も、指示の変化も、なぜなぜ分析の空回りも、プロセス評価も、根っこは一つの構造につながっている。
まとめ—構造が見えると、怒りは整理に変わる
株主、社長、役員、部長、課長、リーダー、現場メンバー。
この7つの立場を一つずつ見てきて、僕が最初に感じたのは、それぞれが、それぞれの役割と利害の中で、ある意味で合理的に動いているという事実だった。
上司や組織への違和感は、個人の性格の欠陥でも、自分の能力不足の問題でもない。役割・評価制度・時代背景が絡み合った構造から、自然に生まれてくるものだった。
「上司が悪い」でも「自分が悪い」でもない。この構造の中で、それぞれがそれぞれの合理性に従って動いている。そう捉え直した瞬間、僕の中にあった理不尽さへの怒りは、少しずつ、整理された理解に変わっていった。
今は、理不尽さを感じるたびに、それが株主・社長・役員・部長・課長・リーダー・現場メンバーという7つの立場のうち、どこで生まれているズレなのかを、頭の中で一度置き換えるようにしている。それだけで、怒りにあてていたエネルギーの一部を、状況を見極めるための思考に回せるようになった。
以前の僕なら、根性論で指摘されるたびに「この人はなぜこんな指導しかできないのか」で思考が止まっていた。今は、その言葉の背後に、20年かけて椅子を守ってきた部長の事情や、時代の成功体験の名残があると分かるだけで、同じ場面に立ち会っても、消耗の仕方が違う。答えを出してくれない上司にいら立つ代わりに、今、自分がこの構造のどのあたりに立っているのかを、少し引いた場所から眺められるようになった。
すべてが解決したわけではない。それでも、自分が今どんな構造の中に立っているのかが見えるようになったことは、僕にとって大きな変化だった。
